レイナルド・アレナス「夜明け前のセレスティーノ」(国書刊行会)*6

――長編。作中を満たす奇天烈なビジョンが幻想なのか暗喩なのか、巻末の解説を参照すれば色々と解釈できそうなのだけれど。難しいことは考えず「そういうもの」として楽しんだ。ミステリ向けの論理脳を捨て、SF向けの科学脳を捨て、ファンタジー向けの幻想脳さえ捨てて。ここに「あらすじ」をまとめることはできない。文中のどこを引用してもあらすじになるし、どこを引用してもあらすじにはならないから。とにかく、普段は娯楽小説しか読まないせいもあって、読んでいてこれほど「不安」になる小説は初めてだった。作中の凄惨なシーンが原因ではなく、作品自体の持つ生の圧力のために精神がヤバい感じになる。
物語について:通常の意味での脈絡なんて皆無だから、精読しても斜め読みしても小説の内容は変わらない。最初から読んでも途中から読んでも変わらない。ただ、初読と再読では変わるような気がする。でも、もうお腹一杯。再読するにしても一年は間隔を置きたい。読んでいるあいだ中、黒板を爪で引っ掻いたときに出るあの音、あの非人道的兵器の音がふと快感に変わる、あの一瞬がずっと脳裏に引っ掛かっていた。「アレナスは一年に一冊まで」と標語にしたいくらいの危険物だ。
映像について:この物語から受けたイメージは、普通の小説から浮かぶ映像とは少し違っていた。それぞれのシーンの上に、メタな登場人物がいる。語り部たちというか、占い婆連盟というか、三人の魔女というか、そういうヤツらが銘々勝手に物語ったり歌ったり叫んだり、したり顔になったりアチャス顔になったり、そのたびに下層の映像が掻き消され、描き換えられ、そして繋げられる。アチャス、アチャス、アチャス、アチャスの部分は視覚よりも確かに聴覚だと思った。や、それよりもカオスな感覚だったかも。視覚、聴覚、触覚、すべてがぐるぐるになって、平衡感覚が崩壊するような。