仁木英之「飯綱颪」(学研M文庫)*3

歴史ファンタジー長編。下町に流れ着いた記憶喪失の大男をめぐって、善良な長屋の住人たちが某藩の裏事情に巻き込まれていく――というストーリー。登場人物がやたらと多いうえ場面ごとに視点がころころと変わるので若干読みにくいのだけれど、それを気にしなければ一種の群像劇のように江戸時代のロマンを楽しめる感じ。陰謀あり剣戟あり妖術ありで最後はきちんと大団円なので読後感がとても良かった。あと、とみちゃんが可愛い。以下ネタバレ少々。
中華ファンタジーと同じくらい忍者モノも好きで、「三重」と聞けば「忍者だな」と思うし「滋賀」と聞けば「忍者だな」と思うし「長野」と聞けばやっぱり「忍者だな」と思うし、電車に乗ればもちろん窓の外には忍者が走っているし、おならをすれば「フフ、風下に立ったがうぬの不覚よ」と心の中でほくそ笑むくらいなのだけれど、僕僕先生のときほど物語に入り込めなかったのはどうしてかな、と考えてみた。
まず第一に、多用される「現代でいうと××にあたる○○」形式の地名や名称の説明が気になって仕方がなかった。中華のときは気にならなかったのに。私にとって大陸の固有名詞は新旧を問わずロマンが満載、東京のそれは身近すぎてダメなんだろうなー。あと、「経営者」とか「T字型」のような現代的な言葉遣いが気になったのと、初めの方に現在の都営大江戸線地下鉄東西線が交わる門前仲町のほど近くに材木町という町が*1とあって、思わず「こんな精密に地名を特定するなんて、地理に重要な意味があるに違いない」などと考えてしまい、そんなことはなくてがっかりしたのと*2
それから、思わせぶりすぎる伏線が多くて混乱したというのもある。個人的な感覚なのだけれど、もったいぶりには良いもったいぶりと悪いもったいぶりがあって、例えば作中にある十六夜長屋の経営者である紅屋伝右衛門は赤樽の太助にとある誘いをかけてから、しばらくこじんまりした庭を眺めていたは悪い。ストレートすぎて伏線が頭の中にスッと入ってこない。「“とある”ってなんやねん、キィーッ」と似非関西弁で叫びたくなる。こういう箇所がもっと優しく書いてあればなーと惜しい気持ちになったり、〆切に追われていたのかなーと邪推したくなったりした。

*1:都営大江戸線」と書くなら「東京メトロ東西線」と書いてほしかった。

*2:思わず「材木町」の歴史について調べ始めてしまって、神田材木町、麻布材木町から木場、新木場あたりまで無駄に勉強が進んだ。