小説を読むとき、その映像を思い浮かべることができるか?(2)

リーマンさんの疑問*1への返答。長くなってしまったので自分の日記に……

ここまで書いてきて気になったのは、ぼくが書いた文章が、読み手によっては映像として受け止められているのかということだ。どうなんですか、ぶっちゃけ。

私は電話帳以外を何でも映像にしてしまう性質なので参考にならないかもしれないけれど、リーマンさんの作品はかなりはっきりと映像になる。映像になっていたからこそ「視界の断絶」という単純なフレーズが強く印象に残ったということでもあり――
特に、パースペクティブ〜は感覚を楽しもうという意識で読んだので、冒頭のバス停のシーンなど、婆さんの傍らには錆びた一斗缶が転がっていてその中に二重三重の蜘蛛の巣が張っていたり、黒ずんだ板壁の一部が腐って穴が空いてそこから裏手のクヌギの枝葉が侵略してきていたり、突風がごうと鳴って木板とトタン板の継ぎ接ぎの壁にざっと雨の弾幕が打ち付けられて少し遅れて屋根の下に回り込んできた大きめの雨粒が一斗缶にがんがんと当たって風が止むと小屋の中に蒸し蒸しした雑草の匂いが残ったり、そういうディテールが脳内で勝手に捏造されていた。というか、私の感覚ではリーマンさんの作品はどれもビジュアルの印象が鮮烈で、これまでのどの作品にも脳裏に焼き付いている映像が少なくとも一枚はある。あの素晴らしい〜のラストとか。セリフは忘れても、映像は覚えている。
とはいえ、実際のところ私の脳内映像は総天然色には程遠くて、カラーバランスが崩れていることが多い。作品ごとに勝手なイメージカラーが付く。緑深い森が舞台なのにイメージは赤いということもあるし、血の惨劇が描かれているのにイメージとしては青だったりもする。例えば、リーマンさんの作品でいうと、あの素晴らしい〜は深紅、まことだった。は薄茶、マリアニスモ〜は群青、パースペクティブ〜は緑色。風見さんの作品は淡青っぽいことが多くて、最中さんの作品は常に真っ白。プロの作家でいうと、北村薫はクリーム色で、加納朋子はライトグリーン。乙一のイメージは総天然色だけれど、乙一(白)にはポスタライズエフェクト、乙一(黒)には輪郭強調エフェクトが掛かっている。と、そんな感じのイメージカラー。自分でも理由は分からないです。

*1:id:tokumeiman:20060709:p1