帯・紹介文の有無

面白い作品に紹介文なしが多かった*1とあるのを拝見して、正反対の印象を抱いた読者としては何か書いた方が良いような気がしてきたので、一言。
小説というのは元来ある程度の先入観を持って読まれるもので、それは例えば著者名だったり、書店の棚においては表紙であり帯であり、文芸誌上においてはその掲載誌のカラーだったりする。作者名も表紙も掲載誌もない場において、それに見合った先入観を提供するもの――それが紹介文なのだ。紹介文がないと、それだけで読者を突き放してしまう。読者を文学新人賞の下読み要員に貶めてしまう*2
今回、読者を突き放す必然性があったのは「パースペクティブ過剰」と「豚」くらいのもので、他の(紹介文なし)の作品は、もちろんこれは私の主観だけれど、紹介文があれば感情移入できたのになーと惜しい気持ちになるものばかりだった。逆に、紹介文で萎えて本文の読み方に悪影響を及ぼしたのは「結婚適文句」くらい*3。「おお」と唸るほど巧みな紹介文は少なかったにしろ、本文へのスムーズな導入としての役割はどれも適切に果たしていたように見える。
……うーん、単に、なげさんも私も紹介文に幻想を抱いていて、たまたま私の方の幻想が現状とマッチしていただけ、という気がしますね*4­*5

*1:id:nage:20060528:p1

*2:厳正な審査ということを考えると、これは正しいのかもしれないけれど。

*3:上位だから萎えたとか書いても良いよね……?

*4:紹介文まで含めて「作品」だという意識があると、紹介文にマイナスを感じてしまうことが増えるのかなー。私は、装飾・サービスとして位置付けていたので、許容範囲が広かった。

*5:というか、主催者さんが「帯なんて読んでない」みたいなことを発言なさっていたような気がするのだけれど。次回もあるんだろうか、紹介文欄。