私は――ここに、読点を打つ

必要以上に読点のある文章は読者に幼稚な印象を与えてしまいがちである。それは小中学生の作文の特徴だからだ。とはいえ、調子に乗って作文していると意図せず読点を多用している自分に気付く。なぜか。それは、脳内の森本レオが情緒豊かに散文を朗読してくれている所為である。レオがナレーターを務めるがゆえ、情緒は抑揚ではなく緩急に現れる。緩、すなわち読点である。つまり、読者が各々のレオを駆使して音読あるいは黙読してくれるならば、それらの読点は言外の感情を雄弁に語ってくれるはずなのだ。しかし、あらゆる読者が脳内にナレーターを飼っていると期待すべきではなく、ましてそのナレーターがレオである可能性となると万にひとつもないだろう。レオを持たない読者にとって、暗黙の意味を匂わせるための読点など効果を現さないばかりか単なる邪魔でしかない。したがって、文章を推敲する際には意図的に読点の使用を控えるように努める。「それは何のための読点か?」と自問する。並列句だとか、接続句だとか、連用修飾節だとか、そういう明快な理由のない読点には特に気を付けなければならない。心を鬼にしてレオを罷免するのだ。
補1。難しいのは、あまり読点を省きすぎると文章が読みにくくなるばかりか文意が曖昧になってしまう恐れがあるということだ。注意深く読点のバランスを取り、積極的に文章そのものを構造改革していく。四字熟語でいうと換骨奪胎である。
補2。上手い文章は読者の脳内に適切なレオを強制発生させる力さえ持つものだ。例えば一人称の小説文などであれば、ここぞという箇所で打たれた読点ほど心憎い演出はない。無論、ここぞという箇所以外では相変わらず読点の使用を限定する必要があるし、三人称だとそういう技法は鬱陶しさが目に付く結果になってしまうかもしれないけれど。また、論説文の場合はそれが客観なのか扇動なのかによって適切な読点使いが異なる。
補3。小中学生の作文に読点が多い理由について。これは彼らが読み書きに関して未熟だからというより、彼らの中に「文章=朗読するもの」という意識が生きているからではないだろうか。実際に声に出すかどうかは問題ではなく、読点が意味や構造の区切りではなく文字通り「短い休符」なのである。小学一年生の授業では確かにそう教えられた記憶がある。
補4。読点が多すぎて読みにくい文章に出会ったら、したがって、朗読に挑戦してみる価値がある。運が良ければ、唾棄すべき悪文が途端に「声に出して読みたい」名文へ化けるかもしれない。台湾製家電などのマニュアルに載っている妙な日本語の情緒を表現できれば一流のレオである。
補5。ところで、最近のベストセラーに読点の入った軟派なタイトルが目立つのはなぜだろう。「世界の中心で、――」とか、「いま、――」とか。芥川を見習え。タイトルは端的に限る。「鼻」「芋粥」「羅生門」「トロツコ」「あばばばば」「或阿呆の一生」「文芸的な、余りに文芸的な」……あ、芥川にも読点あるな。