奇人礼賛

名著『悪人礼賛』(中野好夫)を参考に。抽象論。

世界は三つに分別される

世の中には、大別すると三種類の人間が存在します。二でも四でもなく、きっかり三種類です(安定を意味する「三」という数は、真理に最も近い概念として太古より重宝されてきました)。

  1. 善人さん
  2. 悪人さん
  3. 奇人さん

他に「超人/凡人」という二分法も考慮に価すると思いますが、ここでは割愛させて頂きます。

奇人:文明の先導者

主観や偏見を排し理屈のみで考えるなら、上記の三つの中では「奇人」が最も付き合いやすい種族だという事になるでしょう。時に「変人」とも呼ばれる彼らは、自分に近しいコミュニティー内では総じて寛容で、なおかつ外界には無関心だからです。つまり、彼らは特定の社会または個人に対して害をなすという事がありません。また、奇人は(善人や悪人とは異なり)極端な多様性を持った集合ですから、確率的に言って(貴方自身が奇人であるか否かに拘わらず)彼らが貴方と利害を衝突させてしまう心配は無用です。更に、奇人であるがゆえ、彼らは他人に理解を強要する事もありません。この謙虚さにも、大いに好感が持てます。
歴史にその名を残す人物が必ずしも奇人だったとは限りませんが、文明の先駆者は常に奇人だったはずです。人類の英知を(しばしば当の本人達はそれと気付かぬまま)純粋な意味で前向きに行使できる人種は、奇人を置いて他にないからです。歴史の転換点に目を向ければ、きっとそこには奇人の影が見え隠れしているに違いありません。発明家、芸術家、思想家――彼らは皆、奇人でした。「《その人》である」以外の表現では全てを形容する事のできない唯一無二の存在、それが奇人なのです。

悪人:理性の体現者

奇人の次に好ましいのは「悪人」です。彼らは「策士」とも呼ばれ、自らの優れた思考力を後ろ向きに用います。ここで、「悪人」と「悪事を働く者」とが必ずしもイコールではない、という点に注意して下さい*1。先達に指摘された通り、真の悪人は総じて理性的であり、したがって無意味な行動を取るという事がありません。ゆえに、彼らの思想や行為については容易にそれを理解する事ができます。人々が互いを分かり合う過程で必要となる最低限の論理を、彼らは持っているのです。社会生活を営む上で、これ以上の安心感はないと言えるのではないでしょうか。
悪人は文字通り悪ですから、目的のために貴方を騙すかもしれません。しかし、彼らの行為によって仮に貴方が不利益を被ったとしても、それを理由に彼らを恨むというのはあまり意義のある行動ではありません。なぜなら、彼らは単に知性を行使したに過ぎないからです。つまり、貴方は理不尽な「被害者」ではなく、対等な「敗者」なのです(彼らは常に、貴方の挑戦を受け付けています)。悪人は特に、互いの利害が衝突しない状況においては極めて紳士的であり、筋の通った態度で周囲と接します。「道理」や「礼儀」、「スポーツマンシップ」といったキーワードに最も近い人間、それが悪人だと言えるでしょう。

善人:開き直りの達人

ここまで、冒頭に挙げた三者のうち、後ろ二つに関して一通りの特徴を述べました。当然ながら、最後に残るのは「善人」です。彼らは「愚者」とも呼ばれ、多くの場合、社会の頭痛の種になります。彼らは知性を持ち合わせていないか、あったとしてもそれを行使するという事がないからです。悪人と異なり、彼らに理屈は通じません。悪人の場合と同様、ここでは「善人」イコール「徳の高い人物」ではないという点に留意する必要があります*2。善人とは単に、自分の正当性を盲目的に信じている人物に対する呼称に過ぎません(敢えて主張してみましょう。世の中に蔓延する人々の大多数は、これに当てはまります。残念ながら筆者自身も、この上なく善人です)。
厄介な事に、善人は「自分が善人である」という薄っぺらな前提のみによって自分の行為を許容できてしまいます。道徳と呼ばれる概念がそれを推奨している(少なくとも彼らにはそう見える)事も手伝ってか、彼らが自分の主義に疑問を持つ事はありません。それに加えて、彼らは常に押し付けがましく他人に理解を強要するのです(多くの場合、彼らは自分が何を理解して欲しいのかをそもそも理解していません)。ここで仮に貴方が彼らの言う事を「理解できない」とでも主張しようものなら、貴方は理不尽にも「理不尽だ」と罵られてしまいます。興味深いのは、善人同士ならば何もない所に「理解」を生み出せるという奇妙な現象です。それは幻想だと指摘してみたくもなりますが、理解とは本来そういう事なのかもしれないので全く始末に負えません。本当に、善人とは面倒なものです。

いはんや奇人をや

――以上で、三種の人間に対する簡単な考察を終えました。奇人の素晴らしさ、および善人の傍迷惑さを少しでも伝える事が出来たなら幸いです。これをお読みになった善人の皆様、もしいらっしゃいましたら……奇人になれとまでは言いません、せめて、悪人に、是非とも*3

*1:誤解を恐れずに表現するなら「《悪人》は《悪事を働く者》の部分集合である」となるでしょう。但し、この包含関係は「悪事」の定義に依存します。

*2:誤解を恐れずに表現するなら「《善人》の部分集合が《徳の高い人物》である」となるでしょう。但し、この包含関係は「徳」の定義に依存します。

*3:参考文献:中野好夫「悪人礼賛」(「中野好夫エッセイ集」/ちくま文庫