童話『シンデレラ』考

王子様系物語についての考察――は、ほとんどない。

王子様系物語は何を表現しているのか?

西洋童話の王道と言えば「王子様」である。『白雪姫』然り、『眠り姫』然り。枚挙に暇がない――はずだ(筆者の知識不足のため例がすぐに尽きてしまう事を、非常に心苦しく思う)。しかし、これらのストーリーの基幹はどれも同じようなもので、つまりは「放蕩王子に寝込みを襲われた少女がさらわれて妾になってめでたしめでたし」である。これを男尊女卑の社会体制の表れと見る事も出来るが、むしろ「王子」を「理想の男性」のシンボル、更に言えば、王子との結婚生活そのものを「理想の人生」のシンボルと捉えるべきだろう*1。そう考えれば、これら庶民の変わらぬ夢を語る童話群はいかにもめでたく、それでいていかにも儚い。

『シンデレラ』の特異性

そして、そのような議論に関わりなく、人は言う――それら童話の中にあって『シンデレラ』は異質であり、これは近代社会における女性の台頭を具現している、と。何故なら、シンデレラの玉の輿は能動的なものだからである、と。なるほど、彼女は寝込みを襲われた訳ではなく、自ら舞踏会への参加を志願し、そして恐らくは自ら王子に求愛した(少なくとも王子からは、そう見えたはずだ)。それも、『人魚姫』のように究極の代償を支払う事すらなく、である。
しかし、逆の主張もある――シンデレラの希望はあくまで舞踏会への出席であり、王子との結婚は望むところではなかった、と。どちらが正しいのか、即座に結論を出す事は出来そうもない。そこで、シンデレラの物語の背景について、少し考えてみようと思う。なお、ここでは最も良く知られているペローの作品を主に扱う。グリム兄弟もこの物語を著している*2が、細かな配役の違いや例によってグロテスクな表現がある事を除けば、同じ話であると言って良い。

考察(1):舞台

始めに、物語の舞台となる国について考えてみる。この国は大国なのだろうか、それとも辺境の小国なのだろうか。実は、これこそが問題の核心であり、これをどう仮定するかによって、以降の議論の行方は180度変わってしまうのだ。しかし、ここでは大胆にも、これを大国であると断定してみよう。その根拠は、絵本等で印象に残る「シンデレラがガラスの靴を落とす階段」である。玄関に十数段の(恐らくは大理石製の)階段を備える極めて立派な王城を持つ国が、貧しい小国であるはずがないのだ。
ところが、この説はペローやグリムの著作だけを考える限り、退けられる――何故なら、それらの物語には「石段で靴を落とした」等という記述が含まれていないからである。恐らくは、後世の舞台劇あるいは絵本において追加された演出なのだ。豪奢な城の存在が示されないのなら、むしろこの国を「極めて貧しい小国である」とした方が話を運びやすい(後の議論とも関わるが、家庭的な小国ならば身分を問わずに人々を城に招いたりしても不思議ではないだろう)。それにも拘わらず「大国だ」と決め付ける辺り、筆者の趣味である。

考察(2):王子

さて、舞台が今を時めく大国であるという事を踏まえて、次に考えるべきは「王子」である。結論から言ってしまうと、この男は王位継承者ではないと思えるのだ。放蕩息子の典型たる次男坊か三男坊を見かねた王が、何とか身を固めさせようと「舞踏会で結婚相手を決める」という投げやりな態度に出たと考えた方が自然である。次期王となるべき長男は、既に同盟国の姫君あるいは名貴族の息女と結婚なり婚約なりしているのだ。
しかしこれに関しては、更に穿った見方も出来る。王子が結婚を考えたのはひとえにシンデレラの魅力が勝っていたからであり、そうでなければ王子に結婚の心積もりはなかったとする見方である(但し、グリムのシンデレラには「結婚相手を決めるパーティー」という触れ込みの存在が明示されている)。この場合は必ずしも王子が次男坊である必要はないが、もし王位継承者であるなら世間体も考えねばならず、シンデレラの一族の社会的地位が問題となるだろう。そして――これまで意図的に無視していたが――実は物語の締め括り、最後の一文*3に、王子が「新しい君主」である事が明示されているのだ(この議論、以降の段落に続く)。

考察(3):父親

グリムはシンデレラの父が富豪である事を仄めかしているので、この一族を大商家であるとしてしまっても良いのかも知れない。しかし、使用人の不在(何しろ家事全般をシンデレラがこなしているのだから)を考えると余り裕福とは言い難い。すると、シンデレラの父は貴族であるという事になる。何故なら、一介の平民の娘が王族の舞踏会に招待されるとは思えないからだ。但し先程も述べた通り、余り力のある貴族ではない。恐らくは勤勉と実直だけが取り柄の、重宝はされるが出世はしない、没落一歩手前の貴族といったところだろう。しかし、シンデレラは常に忙しそうに働いている(少なくとも本人はそう振る舞っている、恐らくは要領の悪さゆえに)父親を尊敬していたし、好いてもいた。これは多分に、類い希な人格者であった実母の影響である。

考察(4):継母

次に、継母を考察する。再婚相手のこの女性を、シンデレラの父親は苦手としている節がある。亡き妻を想い続ける誠実を絵に描いたような男*4が何故再婚などしたのかと言えば、これは王または宮仕えの上司の紹介で引き合わされたからに他ならない。そして、この継母とその連れ子達が異民族である事を示唆する幾つかの記述(例えば体格の絶対的な違い等)から考えて、これは他国の名家との間に結ばれた政略的な結婚であると思われる。ここにおいて父親は家庭を顧みなくなり、継母とシンデレラは互いに反目し合うようになる。シンデレラが最後まで継母や義姉達を憎んでいなかった、という描写すら、事によるとペローの切実な(あるいはシニカルな)願望表現に過ぎないのかも知れないのだ(グリムのシンデレラでは継母達はこれでもかと言うほど悲惨な目に遭う)。

シンデレラよ、幸福なれ

シンデレラは、まだ実母が健在だった幼い頃、王城に連れていって貰った経験があるのだろう。夢のような城の雄姿に、多感な少女は強い憧れを抱いた。しかし、その当時は国家の要職に就く事すら期待されていた父親も、その後、妻の急逝、望まぬ再婚を経て、ひたすら下降線を辿っていく。王城と父親の姿は思い出の中で共に美化され、成長して虐げられるようになった少女は「あの城」と「あの父」だけを望んで日々を生きるようになる。
シンデレラにとって、舞踏会は「城」の夢(継母が現れる前は夢ですらなかった)を叶える絶好の機会だったのだ。そこで王子に見初められた事は、はたして僥倖と言うべきか。物語としてそれが必然だったという事は言わずもがなだが、いずれにしろ、一つの夢を成し遂げて今や父親の復権だけを願うようになった彼女にとって、王子の求婚を断る事が彼のメンツの失墜に繋がる以上、取るべき道は二つなかったのである。なればこそ、王子とシンデレラが相思相愛であり、その後も「めでたしめでたし」の字句通り幸福に暮らしていくのだという事を、強く望む、本当に、そう願う*5

*1:「文章」という表現媒体の特徴として、この「理想」は読者個々人のそれに還元され得る。より具体的な表現手段を用いたなら、これは「万人にとっての」ものに帰着してしまうところだ。

*2:タイトルは『Aschenputtel』。『Cendrillon』も『Aschenputtel』も、共に「灰かぶり姫」の意味である。

*3:Cendrillon, qui était aussi bonne que belle, fit loger ses deux soeurs au palais, et les maria, dès le jour même, à deux grands seigneurs de la cour.

*4:この性格付けも筆者の趣味である。念のため。

*5:前掲の引用からも分かる通り、物語の中では「結婚式が盛大だった」事しか語られておらず、その後の生活には全く言及されていない。