大学入試センター試験対策室*3:現代文

理系受験生の泣き所、現代文の試験を如何に切り抜けるか。

理系の天敵――現代文

数多の受験教科の中でも「現代文」は少々特殊である。全く何も解らないという受験生がほとんど居ないのと同時に、総合点の高い者が一般に現代文も出来るという訳でもないのだ。特に理系学生については、多くがこの教科を苦手としているようである。某最高学府の理系学生を対象としたある調査では、センター試験における彼らの国語I・II前半(論説・小説分野)の正答率は全国平均と同程度であるという結果が出た。他の教科、または同じ教科でも後半(古文・漢文分野)では平均点が満点に近いにも拘わらず、である。受験エリートの訓練プログラムには、現代文の強化メニューは含まれていなかったのだろうか。

現代文に文才は要らない、技能を身に付けよ

しばしば誤解されている事だが、現代文の成績は「文才」とは全く関係がない。ある有名作家は、試験問題の課題文として自身の小説が使われていたのでそれを解いてみたところ、半分しか正答出来なかったそうである。幼い頃の強制的な「読書」や「作文」によって国語嫌いになってしまった理系学生が「自分には文才がないから」という理由で現代文の成績向上を諦めているとしたら、それは余りにも勿体ない思い込みだと言わざるを得ない。現代文の試験の解答欄を埋めるために必要なのは、むしろ極めてロジカルな思考なのだ(「文芸」が「論理」と対局にあるかどうかという点には議論の余地が残されているが)。
日本の教育は「知識偏重」だという批判は、よく聞かれるところである。事実、数学や物理といった理系科目の試験では問題の解法を知っているかどうかが問われるし(自ら解法を編み出す事が期待されていないのは、問題数と制限時間の比を見れば明らかである)、社会科の各科目で教えられる内容は全体を体系的に捉えるためには余りにも浅く、暗記に頼るしかない。英語に至っては特定の出題形式に対する解答方法を体得していなければとても解けるものではないし(何しろ英語を母国語とする人間に「何だこのパズルは!?」と言わしめる代物なのだ)、逆に言えば幾つかの出題パターンに対応出来るだけの単語と文法さえ覚えておけば良いのだ。
そのような中にあって、現代文の試験では数学以上に論理的な考え方と英語以上の「試験慣れ」が要求される。これは知識偏重でこそないが、見方によっては「試験技能偏重」とも取れるだろう。これは、前者より更に悪質なのかもしれない。しかし少々皮肉な事に、そこで要求されている「技能」こそが学問として本質的なものであるとも言えるのだ(「科学的探求」の方法論として、である)。
では、現代文の試験に対する上での基本方針を少し考えてみよう。まず、現代文の試験が他の教科と比べて異質であるという事をはっきりと認識しておく必要がある。暗記するものが漢字や熟語くらいしかない以上、猛勉強は必ずしも成績の向上に繋がらない。そもそも、現代文の猛勉強とは何を指している言葉なのか見当も付かないだろう(「読書」だろうか。否、これで身に付くのは単なる「教養」であり、現代文の成績ではない)。これは実際には他の教科にも当てはまる事なのだが、必要なのはごく少数の「コツ」なのである。

論説問題:劣悪なパズル

より特殊な小説文の試験対策を後に回し、まずは論説文について考察する。結論から言うと、この分野の問題では課題文の論理構造をグラフ化する技能が求められているとして間違いないだろう。現代文の授業中に「この指示語は何を指すか」とか「この接続語はどこを受けた表現か」等という「読解」をした事と思うが、それである*1。これは実際には非常に難しい作業で、細かな部分から文章全体まで段階的にグラフを構成していくという仕事は数学や論理学が得意な人間でなければなかなか出来るものではない。
まずは何も考えずに(これもある意味では難しい)、あくまで機械的に作業を進めよう。文書構造をグラフ化する――しかも制限時間以内に――というのは、まさに文脈判断をする最新の人工知能が志向している事だからだ。しばしば指摘される通り、論説分野の問題はパズルなのである。
補足になるが、出題者の側から見れば、「難しい」論説文の問題を出題するのは非常に簡単である。単に、課題文として悪文を持ってくれば良いのだ。本文の文章が下手であれば下手であるほど、問題は難しくなる。ある意味、これ以外に問題の難易度を上げる方法はないとすら言えよう。そもそも第三者に向かって何かを述べようとしている文章が解りにくいというのは致命的な欠陥であり、到底そのような文章に価値を認める事は出来ない(例えば、この文章の事だ)。読者に専門的な知識を要求する文章ならば話は別だが、「試験問題」にそのような題材が使われる事は考えにくい。だから、難しい問題に遭遇したならば、まずは課題文の筆者を憐れんであげよう(彼が確信犯であるとは限らないが)。次に出題者を呪い、その後おもむろに自分の思考を機械化すれば良いのである。

小説問題:物語に没入するな、作者を重んじるな、出題者こそが絶対である

小説文、つまり文学分野の試験問題は更に特殊である。何よりもまず、小学校から繰り返し教えられてきた「主人公の気持ちになって――」や「作者の言いたい事は――」等という考え方を捨て去らなければならない。必要なのはただ一点、「出題者の意図は――」なのである。主人公の気持ち云々というのは情操教育の範疇だし、作者の主張が云々というのはそれが余程思想的な作品でもない限り文学評論の見地だ。
少なくともセンター試験の国語I・IIに関する限り、問題を解く上で重要な情報は設問それ自体か、さもなければ「課題文として引用する範囲の選び方」といった部分に含まれる。したがって、課題文として引用されている小説なり詩なりを個人的に読んだ経験があったなら、それは不幸だと言うしかない。引用されていない部分の文脈まで知っている事は、解答の妨げにしかならないからである。試験問題を解くに当たって、文学の素養はむしろ不利益の源なのだ。
文学作品の作者に何か伝えたいメッセージがあったにしろ、それを単純な言葉にする事が出来ないからこそ「作品」という形で表現されているのである。作家自身にすら明示する事の出来ない心の中のもやもやを一介の受験生が「50字以内で」説明するのは原理的に不可能だし、まして出題者のこしらえた選択肢の中の一つを「正解」だとする事など傲慢も甚だしい。
この事を踏まえて、小説分野の問題に関しては「まず本文有りき」ではなく「設問に本文が付随している」という意識で臨んだ方が良い。設問から先に読むのも良いかも知れない。経験上、設問を読んだだけで「答え」の見当が付いたなら、本文に惑わされずにそれを選んでおいた方が良い結果となるようである。また、これと関連して「主人公の考えとしては明らかにAなのだが世間の常識で考えると多分Bだ」という状況で迷ったなら、Bを選択する事をお奨めする(勿論、Bという記述が本文のどこにもなかったなら話は別だが)。
どんな場合でも、考えるべきはあくまで「出題者は何を答えて欲しがっているか」であるという事は先に述べた通りだ。そして、これには二つの意味がある。「出題者の考えている正答は何か」という事と「出題者の期待する《誤答》は何か」という事である。繰り返すが、これらの問題を考えるために必要な情報は設問文や出題形式の中に含まれている。設問をじっくりと読んだ結果、設問自体が本文にそぐわないような気がしたなら、設問の方を信じよう。本当はそんな事など有り得ないのだろうが、間違っているのは本文なのである。
いずれにせよ、「この問題に対して真に相応しい解答は何か」を考えるべきではないという点に違いはない。本文の作者と真摯に向き合う必要はなく、出題者が穿った人間ならば自分もひねくれた思考をしなければならないし、出題者が深い読解を求めていないならば自分も手を抜いてやらなければならない*2

補足:五択問題の基礎知識

ここまでの文章はメタな議論に終始してしまった感があるので、最後にセンター試験に関する小さなヒントを記しておこうと思う。選択肢の生成方法に関する事柄で、御存知の方も多いだろう。
五択問題の選択肢を作る場合には、まず「正答」を三つと「誤答」を二つ(「正答」を五つ、という場合も有り得る)作る。その際、五つの答えは全て前・後半に分離可能な構造を持った文になっている。そして、実際の「正答」を一つ残して残りの選択肢の後半部分を適当に入れ替えるのである。したがって、「誤答」には「前・後半のいずれか、または両方の内容が誤りである」というパターンと「前・後半が論理的に(または本文の記述内容から考えて)繋がらない」というパターンが存在する事になる。
それでは、具体例を挙げて考えてみよう。ここには本文がないので、正答かどうかは常識で判断して頂きたい。

  1. たい焼きの代価を払わずに逃げたなら、窃盗だ。だから、この少女は犯罪者である。
  2. 毎日アイスクリームだけを食べ続けたなら、病気になる。そのせいで、彼女は死んでしまった。
  3. 牛丼を食べた後すぐに暴れ回ったなら、兎になる。すなわち、兎は構ってやらないと寂しくて死んでしまう。
  4. 彼女はとても足が速く、一日の大半を寝て過ごす。したがって、よく寝る人は足が速い。
  5. 猫に冷たい牛乳を与えたなら、下痢になる。そのために、あの猫は苦しんでいる。

かなり無茶苦茶な例だが、このように文体を揃えたり揃えなかったり、微妙に教訓らしき記述を織り交ぜたり織り交ぜなかったりしながら、選択肢を作るのである。前半部に理由や原因、後半部に結論や結果の記述が来るのは、センター試験における選択肢の典型例だ。なお、この時点では三番目と四番目が誤っている。前者は前半が明らかに破綻しており、後者は前半と後半に論理的な繋がりがない。これらを操作して、次のような選択肢が出来上がる。

  1. たい焼きの代価を払わずに逃げたなら、窃盗だ。すなわち、兎は構ってやらないと寂しくて死んでしまう。
  2. 毎日アイスクリームだけを食べ続けたなら、病気になる。そのせいで、彼女は死んでしまった。
  3. 牛丼を食べた後すぐに暴れ回ったなら、兎になる。そのために、あの猫は苦しんでいる。
  4. 彼女はとても足が速く、一日の大半を寝て過ごす。したがって、よく寝る人は足が速い。
  5. 猫に冷たい牛乳を与えたなら、下痢になる。だから、この少女は犯罪者である。

勿論、これが実際の試験問題ならば、もっと巧妙に練り込まれた選択肢が並ぶ事になる。前・後半の区切りが明確ではないかも知れないし、それぞれの選択肢が三つの部分に分かれる場合も有り得る。誤答と正答の境目も、きっと微妙だろう。特に厄介なのは、明らかに誤った選択肢に紛れて曖昧な誤答が配置されているという場合で、思わずこれを正答だと錯覚してしまうのである(上の例で言うと、四番が当てはまるだろうか)。
そのような状況で一つの「正解」を探し出すためには、先の「誤答のパターン」のそれぞれを検討する必要があり、それを限られた時間の中で行うためには「試験」それ自体に慣れるしか方法がない。また、言うまでもなく、これらの作業は「出題者の意図を見極めながら」進めるのである。例えば、前述の「出題者の期待する《誤答》」という観点から見れば選択式の問題における「消去法」もより洗練された手法となるという事を、覚えておいて欲しい。
――以上、受験生諸氏の健闘を期待する*3

*1:この手の作業が苦手な人は、細分化された個々のフレーズを一つ一つ連結していく事だけに注力した方が良い。現代文の試験に関しては、今のところミクロな読解論が支配的だからだ。全体として筋を通すところまで考えなくても、大多数の問題は解ける。

*2:あらかじめ(過去の問題や模擬試験等に基づいて)センター試験(またはその他一般の試験)の求める「深読み」の程度と自分本来の読解の程度との差を把握しておくと良い。特に物語を深く読む習慣が身に付いている場合には、意識的に感覚を鈍化させて試験に臨む必要がある。

*3:陳謝:もし、本当の受験生が期待してこの駄文を読むような事があったのなら、非常に申し訳なく思う。お読みになれば解る通り、これは単なるナンセンス文書であり、受験生に読んで頂こうなどとは髪の毛ほどにも考えていないのである。そのつもりがあるなら、きっと「現代文攻略五ヶ条」くらいの事は書く。そもそも日本の受験機構を侮り切って生きてきた筆者に、偉そうな事を言う資格などあるはずがないのだ。