パースペクティブ欠乏

各所で感想の公開が賑わっていて、私もそれを楽しませていただいているのだけれど。例の08の関連だけは意図的に避けている。別にこれは独力で解釈してやるぜという意気込みではなくて、解釈しない方が真実に近い――というか、単純に面白いと思っているから。以下に、私が解釈しないぜという結論に達した理由を述べる。
まず、表題の「パースペクティブ」は何を意味しているのか。これはそのまま、遠近法だ。近くは大きい。遠くは小さい。視野角の広さは識別可能距離の短さに繋がる。離れたものは、見えない。
思い出してほしい。08はあれほどひとつの段落が長く「」さえ使われていないにも関わらず極めて読みやすく書かれていた。「誰が」「いつ」「何を」知覚し得たのかという事実そのものについてはどの読者も過不足なく把握できたはずだ。文章自体が、見る者の脳に流れ込む知覚信号のシーケンシャルな複製になっているからである。08が議論の種になるとすれば、それらの知覚の裏に隠れた事件の内幕が分からないからだろう。しかし、それは分からないからこそ内幕なのであって、読者に与えられたヒントはそれが「見えない」という事実だけなのだ。これは推理小説ではない。ミスリードがあると匂わせること自体がミスリードである。
08に描かれているのは世界の縮図である。作中では住民の繋がりが密であるはずの田舎が舞台として選ばれているのに、それでも単なる「村人A」である婆や爺や猫には隣家で起きている事件が見えないのだ。いくらTVでニュースを見ても地球の反対側で起きている事件には興味が持てない。これと同じことが作中では生じているのである。それは、単純に地理上の距離という形で、あるいは時間的な隔たりとして、光学的な遮蔽物として、伝聞形の曖昧性として、老人の知覚の衰えとして、幼児の無知として、人と獣の異種性として、繰り返し語られる。はたしてこの「見えなさ」は「過剰」だろうか。現代の都市生活者は隣人の顔も名前も知らないのに……? 圧倒的な「見えなさ」。これがこの作品のキモである。
「奇妙」を挙げればキリがない。普通は「鎌」を「横」に振るはずの作業で「鉈」を「縦」に振っているあたりとか、「手を、わせてください」が「手を震わせてください」のはずはなく穴埋めの解答は一意に思えるあたりとか。ただ、それは錯覚だ。情報を繋ぎ合わせれば真実が見えると期待すること自体が作者の思うつぼだということに、「村人B」にすぎない読者は早々に気付くべきなのだ。この作品に「隠された真実」はない。たとえ作者が唯一の解答を用意してから作品を書き始めたのだとしても、「ないものはない」のだ。
警察は現場を検証したからこそ真実を得たのである。「現場」を与えられなかった読者は、作品を何度読み返したところで真実に辿り着くことは決してない。たとえ読者が稀代の安楽椅子探偵だったとしても、傍証未満の証言から真相を暴くことなどできはしないのだ。老婆の視界は「見えない」を表すストレートな暗喩である。それは善でも悪でもなく単純に厳然たる事実であるという真理を、最後の一文が端的に示している。
――というのはタテマエで、実際には私が真相を想像すると↓こうなってしまうからです。
青年は超能力者である。世界からの断絶を選択した灰色の男なのだ。自分と自分に関わる固有名詞を隠し他人の注意を逸らすサイキック。老婆の視覚に異常を起こすほどには力を持ち、しかし異常を起こしてしまうほどには中途半端で、それゆえに明確な目的を持って彼の元を訪れた警官を退けることまではできなかった悲しい超人。中年の男女は彼のクライアントでありターゲットであり、ヒトでないネコは彼の唯一の友人だったのだ。