言葉が先か、感覚が先か(萌え考)

「萌え」を哲学的に考察してみる(アホ)。

日本人――肩凝り民族

英語圏の人間は肩が凝らない。代わりに首が凝る(stiff neck)のだと言う*1。これは単純な表現の相違ではない。肩凝りは通常の怪我とは異なる漠然とした疾患であり、大部分の症状を主観に頼る。故に、たとえ医学的には両者が同じ状態を表しているにしろ、不快感を覚える部位が言語によって左右されてしまったとしても驚くには当たらないのである。この事例を踏まえると、「《ストレス》という単語が輸入されるまで日本にストレスの患者は存在しなかった」という笑い話も強ち冗談ではないのかもしれない。
身体的な疾患に限らず、日本人に特有であるとされる感覚は多く存在している。代表的なものは「侘び」や「寂び」だろう。他にも、「懐かしい」は「nostalgie」的な渇望の郷愁とは趣を異にする穏やかな感情であり、またステレオタイプ化された親しみの情景に対する共感あるいは既視感とでも呼ぶべき情緒をも内包している。加えて、昨今では「萌え」なる不可思議な言葉まで台頭している。それらを総括して「《言葉以前》と《言葉以後》ではその心の有り様が全く異なる」と断定してしまう試みは些か乱暴だろうか。なるほど元々それらは人々の胸中に存在した萌芽だったのかもしれないが、現実に「感覚」として各々の自覚を促すためにはその拠り所となる言葉がどうしても必要だったのだ。

まず「萌え」ありき

用語の独り歩きとともに日々その定義を肥大化させていく「萌え」の例を観察すると、「拠り所」としての特質が分かりやすい。当初は「マルチむほへぇ〜」辺りで既にギリギリのラインだったはずのこの言葉だが、近頃は猫も杓子も「萌え」だ。百歩譲って「手塚部長萌えv」は理解できる。「ゆりかもめ萌え」「100円玉萌え」も受け入れよう(筆者は物分かりが良いのだ)。しかし「インド萌え」は如何なものか。それは本当に「萌え」なのか。「カレー」の間違いではないのか。よもや、辞書的な意味に立ち返って「南アジア文明の黎明期」の事を言っている訳ではあるまい。
恐らくは、こういう事なのだ。皆、自分の中のもやもやに形を与えられずにいたものを、ちょうどそれらしい語法が登場したことによって「これは《萌え》だったのだ」と結論してしまったのである。その一方で、識者を自称する連中がこの新しい言葉の意味を定義あるいは解説しようと試みる毎に「萌え」のカバーする意味領域は拡大していく。すると、更に多くの「これは《萌え》だったのだ」が生じる――以下、循環である。萌え原理主義者からすれば、この状況は安直以外の何物でもないに違いない。しかし、この安直さこそ「萌え」が普遍性を持つためにクリアしなければならない一段のステップだとも言えるのである。

萌え――もののあはれ

「ムカつく」や「イケてる」が既存の感情に関する表現の怠慢に過ぎない(日本語には両者を子細に言い表す単語が掃いて捨てるほど存在する)のに対して、「萌え」は代替の利かない語法である。しかし、別の言葉を用いて言い換える事は無理でも、その意味を説明する事ならば可能だ*2。いったい「萌え」は何に由来する感覚なのか――結論から言ってしまえば、それは「もののあはれ」に他ならない。本居宣長が指摘したように、これこそが平安時代(あるいは更に古い時代)に端を発する倭的心情の根幹なのである。
様々な「もの」に「あはれ」を覚えるという繊細な心の流れは、およそ世の中に存在する全ての物体、現象および感情に霊魂の存在を仮定する日本古来のアニミズムと驚くほど親和性が高い*3。また、扱いの難しい機微を文学として昇華させたという意味で『源氏物語』の果たした役割は偉大だ。しかし、紫式部にも落ち度があった。彼女は婉曲を愛するあまり「もののあはれ」に属する情動を端的に示す言葉を用意せず、結果として人々からその本質を捉える機会を奪ってしまったのである。一方、明治以降に流入してきた西洋文化はストレートな分かりやすさを身上としており、何の捻りもない「love」や「excite」「interest」によって「もののあはれ」が蹂躙されるのは当然の帰結だった*4。冒頭の内容とも関連するが、これは単純な言語の変遷ではない。日本民族の精神性に関わる重大な問題なのである。この国に住む人々は今、伝統的な心の規範を完全に忘却してしまうのか否かの岐路に立たされている。
そのように窮地に陥る「もののあはれ」に対して救世主となり得るのが「萌え」である。何故なら、これほど「もののあはれ」に向かう人々の心情を的確に表現できる言葉は存在しないからだ*5本居宣長は『源氏物語』の根底に流れる精神を「もののあはれ」として端的に包括してみせたが、この表現はあくまで客観的な分析に基づく名詞句であり、動詞や形容詞として主体的に用いる事はできない。それに対して、名詞であると同時に語幹でもある「萌え」は本来的に「萌える」と活用される。したがって、人々は「萌え」によって自らの行動を説明する事ができるのだ。これは「侘び」「寂び」にも為し得なかった偉業であり、類例のない新語であるが故に「萌え」が今後どこまで展開し得るのかというテーマについては容易に予断の及ぶものではない。

それは、日本人のアイデンティティとして

日本語においてしばしば主語が省略されるのは、何も発話の効率を求めたからではない。倭的な基準によって認識される世界においては、行為・性質の主体そのものが極めて曖昧だからである。「あはれ」にしろ「萌え」にしろ、その主体は(場合によっては客体さえも)常に漠然としている。「メガネ萌え〜」と言う時、それは「あるメガネ」を指しているのかもしれないし、「メガネ一般」を指している可能性もある。また、「メガネを身に付けた人物」なのか、あるいは「メガネそのもの」なのかという視点からもやはり不明瞭だ。更に、「私がメガネによって萌える」のか「メガネがその性質として《萌え》を備えている」のか、という問題もある。注意しなければならないのは、これは「こういう解釈も出来る」というだけの単純な曖昧性(弱い曖昧性)ではなく、本質的にあらゆる解釈の並存する量子論的な曖昧性(強い曖昧性)であるという点だ。メガネに萌える人物を取り巻く文脈では、上述した全ての解釈が(重みの違いこそあれ)同時に成立しているのである。
英語は常に圧倒的な「個」としての主体を想定しており、そのため「萌え」の精神とは対極にある。主語を省略出来ないという性質もあるが、何より重大なのは冠詞や複数形の存在だ。「glasses」に「メガネ」のような曖昧性はない*6。また、「眼鏡」や「めがね」に対して「メガネ」の持っている微妙な萌え感、といったファンタジーとも無縁である。しかし、日本の風土に相応しい伝統に立ち返るならば、「メガネ」の曖昧性を捨て去るべきでないという指摘は当を得ている。元来「萌え」はアナログな情緒であり、したがってデジタルの極限とも呼ぶべきコンピュータの界隈に潜む人々を中心としてこの用語が広まっていった過程は偶然ではない。「萌え」は日本人がアイデンティティを失わないための最後の砦であり、曖昧の美徳を忘れた現代人に訪れた強烈な揺り戻しなのである。
以上の考察から、「萌え」の指す意味領域は少なくとも古典において「あはれ」が占めていた程度まで拡大を続けるものと想像される。筆者の記憶が確かならば日本の古典文学は「あはれ8割、愛憎2割、エトセトラ微量」によって構成されているから、国民生活の実に8割が「萌え」によって表現されるようになる計算だ。特に「侘び」「寂び」あるいは(意図が直接的すぎて日本人の気質に馴染まない)「love」や「like」といった言葉の定義はやがて「萌え」に吸収されるはずである。「モエ」が「サムライハラキリゲイシャフジヤマ」を塗り替える日もそう遠くないだろう。「萌え」の先駆者たちはこの言葉の持つ特権的な自虐性が失われていく様を嘆きたくなるかもしれないが、日本の同胞のためにどうか耐えて頂きたい。

*1:「stiff shoulder」という言葉もあるが、これは外科的に深刻な症状であり、日本の「肩凝り」とは異なる。

*2:但し、ここで何を書いたところで前節に述べた「定義の肥大化」にしかならない可能性もある。しかし、その点には目を瞑って論を進めよう。

*3:この観点から、昨今とある巨大匿名掲示板コミュニティ近辺で盛り上がっている「擬人化」の風潮は「萌え」にとって原点回帰であると言えよう。

*4:福沢諭吉を初めとする明治の学者や文豪たちが西洋の概念を輸入する事にばかり躍起になっていたという歴史は周知の通りである。

*5:この前提が腑に落ちない場合は、「もの」を「ぷに」「メガネ」等の属性と置き換えてみよ。それらについて「あはれ」以外の形容が成り立つかどうか検討する事。あるいは逆に「紫の上萌え」の正当性を検証しても良い。すなわち、それがヒトであるかモノであるかを問わず、萌えの対象となる霊魂は常に話者の精神の投影に他ならないのである。したがってこの感情が架空の人物(精神を想定しやすく、また実在のそれと競合しない)に向かいがちなのは当然だ。

*6:無冠詞の「glasses」は「the glassesやher glassesではない」という決定的な情報を含んでいる。また、日本語と違って主語と目的語の別も厳格だ。